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日本人は勤勉を装うべきか

前の記事で「日本人は勤勉」ということについては、作られたものであると書いた。
それがわかったところで、では今後日本人は勤勉という仮面をかぶりつづけるべきなのかどうなのか、という疑問が湧いてくる。
本来のいいかげんな日本人に戻るべきという単純な主張が必ずしも正しいとは限らないのだ。

前回の記事の最後の方でも書いたように、「勤勉」という部分で日本は評価されている部分がある。
ということは、もしもいきなり「勤勉」をかなぐり捨てた場合、いろいろな面で都合が悪くなってくる。
鎖国が終わって、外国との交流が始まり、いろいろと競わなくてはならなくなった時代に、日本がしっかりと在ったのは「勤勉」であったからだという。

 普段の生活においても、西洋化が進み、コンピュータ化が進み、きっちり動かないと都合が悪いものが増えすぎている。

まあ適当に動いてくれてたらええわ、見たいなノリで扱えるものが減っている。
いきなり「勤勉」さを捨ててしまったら、故障だらけの事故だらけといった風にもなりかねない。
これはヤバイ。

休みとか自由な時間が増えても、上手く使いこなせる人がどれくらいいるのか。
昔の緩い時代の自由な時間といっても、個人の自由ではなく家や住んでる地域のために使う時間が大半だったという意見もあるようだ。
つまり日本人は昔から、余暇を上手に楽しむ民族ではなかったということか。悲しいぞ。つまらないぞ。何とかするんだ。

現在の時点では「本来の日本人は勤勉ではない」ということをはっきりと認識することが大切だというに留まる。
なんだか堅苦しい表現だな。
「もう少し緩くなってもいいんじゃない」ってところか。

日本人が今勤勉をやめようとしても、やめることに勤勉になるに決まってる。
多くの人が、正確でありつづけるべきことと、いい加減でもいいことの区別がつけられない。頭では区別出来ているつもりでも、行動が伴わない場合もある。
だからもうしばらくは「勤勉を装う」ことにした方がいいようだ。
何でも急はよくない。

世界の中の日本という意味でも、世界は日本に「勤勉」を望んでいる。
そのイメージが崩れると、あまりいいことでもなさそうだ。
とりあえずは「勤勉な日本」というイメージは保っておきたい。

とまあ、ここまで書いたところで、しかし最近は、日本人のイメージも以前よりは胡散臭い方向に向いているのかもしれないとか思ったりする。昨年はたくさんの「嘘つきさん」が登場したし、大体科学者が平気で嘘をつくなどとは、昔なら思いもしなかっただろう。
もしかすると日本人の「勤勉像」も崩壊しつつあるのかもしれないね。

 

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