カラフルなブログとか

ちょっとしたメモ代わりに

勤勉と言われて喜んでいる日本人

子供の頃から耳にした「日本人は勤勉」なんだ

それは誇るべきことなんだと、伝えられてきたものだ。
結果、誰もが「勤勉なんだから日本人は偉い」と思って生きてきたんよね。

朝から晩まで会社で働く。多少緩くなったとしても、とにかく「真面目に働く」という部分は不変。
仕事のことを第一に考える、というより仕事のことだけを考えていないと悪者扱い。
不平不満はもちろんあるが、表立ってはなかなか言わず。
「勤勉」の道から外れることはタブーとでもいうかのように。

我々日本人はそういう民族なのだから仕方ないと思っている人がほとんどのはず。しかし、どうやら「日本人は勤勉」というものは作られたもののようだ。

昔の日本人

江戸時代、家庭を持ちながら定職に就かない人が4割ほどもいる地域があったらしい。金が必要になったら町に出て何か仕事をして日銭を稼ぐといった暮らし。これで何も困らなかった。日雇いの仕事がいくつもあり、働きたいといえばすぐに仕事が出来たのだ。
いや実際、本来の世の中はそうであるべきなのだが。
今の平成の時代でも、本当に何年も修行や訓練して一人前になる職業なんて一握りなもんでしょ。つまりほとんどの人間は、しょーもない仕事を何年やったかに値打ちを感じて一生を費やしている。

まあ、そのある程度修行が必要な仕事にしても、江戸時代の場合は適当に行ったり休んだり、暑いからやめとこみたいな、そんなええ加減な部分も多分にあったようだ。

しかしだ。私はそういったことを最近になるまで知らなかった。今と違って江戸時代は緩かったとかいった話は聞いたことがない。誰もが昔からずっと日本人は勤勉であったと思っているのではないか。

これの理由としては、江戸時代に関する本などの執筆者達が「勤勉でない日本人の姿なんて、私認めないっ」と言って、意図的に避けたからだという話もある。

まあそういった部分もあるかもしれないが、一般的に江戸時代のイメージと言えば武士のイメージであり、士農工商という身分制度について学校で教えられたりした記憶がある(一応記しておくが、士農工商は本当は身分制度という意味合いではないという意見もある。真偽の程は知らない)。
今よりも殺伐としている、何かあったらすぐ斬り殺されそう、年貢とか飢饉とか一揆とかあって大変、といったイメージがある。
のんびりした暮らしで一生過ごせる人がいるという想像がつかないのだ。


日本人が勤勉になった時期は

さて、そうなると何時から日本人は「勤勉」になったのか?
明治時代の富国強兵政策かららしい。工業が発展し、輸出でどんどん儲ける。そのためには、長時間真面目にコツコツ働く労働力が要る。そのような時代になれば、半ば強制的に労働に就かせるという風潮があったと想像できる。
国が儲かるといっても国民全体が儲かるという意味ではもちろんない。これは平成の今と同じ。運よく儲かる側になった一部の人達がさらに儲かるようにと戦争を仕掛け、第一次大戦などでボロ儲けする。何故そんなに稼いだかというと、国民を「勤勉」に導いたから。

いっぱい儲けた人は、さらに儲けたいと欲が出る。人間の習性。そのためいつまでも国民を働かせたいのだ。「日本人は勤勉」という暗示をかけておけば、こいつら勝手に喜んで働きやがる、ということ。
「日本人は勤勉」とは、労働に対して勤勉なのではなく、騙され乗せられることに関して勤勉なのだ。それが今も続いたまま。

戦後高度経済成長があった。日本人だからこその成果だと思ってる人は多い。しかしこれも単なる運のよさということらしい。よそでいろいろ戦争してくれたおかげで、戦争特需による大きな利益があったのだ。
日本人の勤勉さによって高度成長をなしえたというのは、誤った認識らしい。

もし日本人が真面目であり、俗に言うところの民度が高いというならば、このところの偽証、偽装、嘘のオンパレードのニュースはどう説明するのだろう。一部の人のしたことと言うのだろうか。いや、これを批判する側の人間もくだらんレベルの者がほとんどだ。まさに馬鹿が馬鹿を馬鹿と言う日本人。
これは日本に限らずこの世界では、どこでも似たようなものかもしれないが。

本当のところは「日本人はいいかげん」

とにかく日本人に限っていえば、元々いいかげんな民族なのだ。そしてあまり自分の頭で考えることをせず、他と違うことを極端に恐れ、嫌い、差別する、卑怯な習性を持つ。それは想像力や創造力の欠如が著しいからなのだが、何故そうなのかはわからない。
こういうことを言うと、細やかな感受性があるじゃないかとか、過去の詩人や文学に関する部分で素晴しいところもあるという意見が出る。しかしそれは、どんな世界にもまともな奴もいるということであり、全体がそうであるということではない。

製品の細やかさについても、他と違うことを極端に恐れる故のことかもしれない。
繊細な表現についても、似たようなことは何年も前から誰かが言っていることであり、それを少し変えて言い直してるだけともとれる。
ここのところニートや生保受給者や、定職に就かない(就けない)人への攻撃として使われる「働かざる者、食うべからず」という言葉。昔から使われている言葉ではあるが、これは聖書の言葉であり、明治以降に西洋かぶれの人達が言い出したことを猿真似しているだけにすぎない。

そう、誰もが自分の言葉でものを言わないし考えないのだが、本人達は自分の意思で考えてると思い込んでる。
他人の思考や指図で動いているのだが、本人達は自分が自由に行動してると思い込んでる。
言葉、四季の移ろいを感じる心、こまやかな心遣い、全て猿真似から発生している。
このように自分の人生もいいかげんに思ってる日本人は、たまに「いいかげんじゃない」日本人を見ると腹をたてる。


勤勉という評価は喜ぶべきものなのか

そのような人生ばかりが蠢く日本の世の中だから、誰もが閉塞感を感じて生きている。何故か。それは人間は本来自由な生き物だから。
それでも何とかこの社会が秩序を保っているのは、ただ「日本人は勤勉」という暗示が生きているから。ほとんどの日本人にとって「勤勉である」ことこそが誇りであり、「勤勉である」ことを意識することで何とか正気を保っている。
そう、日本人は「勤勉」と言われて喜んでいる。「褒められた」と思って喜んでいる。

では「褒めている」のは誰か。それは欧米諸国。自分達の国の人間よりも、よほど日本人は真面目だと言う。
そして「勤勉」である限り日本には価値がある、といった見方があるらしい。中国などが発展しても、やはり「勤勉」な日本は重要だと。
これって、勤勉な日本は欧米諸国にとって使いやすい、ってな風にもとれるな。喜んでばかりでいいのだろうか。

ということで「日本人は勤勉」というのは捏造されたものであることがわかったのだが、そこでだ。
じゃあ日本人は本来の姿に戻って、ゆるくいいかげんに生きていけばいいのか、ということについてだが。
その辺りは別の機会に。

 

関連記事

 *日本人は勤勉を装うべきか

 *「納得させる理由」などいらない、「自分が納得する理由」と「人に説明できる理由」が人に伝える秘訣