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福祉よりも投資、それよりも機会

もう長い間この国の問題となっているのが貧困層への対策。これがなかなか進まない。

これには様々な理由があると思うが、大きなものとしては対策を講じる側が貧困ではないからだ。当事者意識が薄いのでどうしても計画が甘くなる。そして、貧困層の生活が改善されたとしても、それが直接的に何らかの効果につながるのかといった疑問も付きまとうのだろう。

 

だから、単なる福祉の一環。弱い人を助けてあげる、慈善事業といった感覚でしか捉えられていない。

 

しかし、貧困層の人たちが普通の一般的といわれるレベルの生活を送れるようになれば、消費の面で明らかに変化があるはずだ。そりゃそうだ。今まで買えなかったものが買えるのだから。

最初のうちは生活必需品レベルに留まるかもしれない。しかし、しばらくすると家電製品も売れ始める。テレビ、エアコン、冷蔵庫。それも一度目は小さいコンパクトな製品で収まったところが、その人の好みによってより大きな製品に買い替えといったことも出てくるだろう。人間には欲がある。貧困から脱したばかりの頃は、最低限の人間らしい生活ができればいいと思っていても、次第に普通の消費感覚が身につくものである。

 
そういった人たちの中から、より高価な贅沢品を求める人が出てくる。高級ブランドもののバッグ、車、海外のインテリアといったように消費の上限はない。物は売れ続ける。

 

そうなると良い思いをするのは誰になるのか。国民全員が恩恵を受けることになる。

 

貧困層の解決が図られると、人々の精神が安定する。不安に苛まれながらの生活から解放される。

誰が不安に苛まれているというのか。今普通に暮らしている人も、貧困層の問題なんか後回しにしろと主張する人も、いつ自分が貧困層といったレベルに落ちるかと戦々恐々なのだ。

不安を振り払うために、不安を感じる自分を否定したいがために、今の貧困層に対し攻撃的な態度でいる。俺は違うんだ、と。

 

貧困層の問題が解決すると、自分がそうなるかも、という不安から解放される。生活の不安から解放される。それは穏やかに人生を感じられるということ。誰もがそうありたいと願いながら、今まで感じている不安によって打ち消されてきた希望がやっと叶うということ。

 

貧困層問題の解決の遅れは、国民全体にとっての大きな損失。経済的だけでなく、精神的なダメージを考えると、最大の損失。

 

こんな貧困層問題を、今までの福祉的な観点から投資といった見方で捉えるべき、という意見が出てきつつある。それはまさに、上に書いたように単なる慈善事業目線ではなく、後々の経済効果を見据えた長期的な取り組みで事に当たるべき、ということだろう。

また、目先の利益や損得よりも、本当に自分たちの利益になる方法を取りたいという思いから出た意見でもあると思う。

 

さて、投資というスタンスを取るということは、確かに一歩進んだことになる。ただ、これも本質の解決には至らない。

それは、何故貧困層が発生したのか、そしてリバウンドならぬ貧困層の再出現の防止、といったところの対策をとらなければならないからだ。

 

貧困に陥る理由もいろいろとあるだろう。怠け者だから貧困層になった、と非難するような人も多いのだが、そんな単純な話で済むことはない。

 

ほとんどの人は機会が奪われたからだと考えてみる。それは働く機会とか、進学の機会といったことだけではなく、成長の機会、出会いの機会、育てられる機会、良いことを良いと間違いを間違いと希望を希望と改めるべきものを改めるべきなのだと教えられる機会。そういった機会が全員に平等に与えられているとは言いがたい。

 

もちろん、平等にすべきと理想ばかり言ってもはじまらないし、そんなことは出来るはずがない。ただ、不幸にも機会が少なかった人を救うという意識は必要だ。何故なら、それが国民全体の生活レベルを上げるのだから。その意味で貧困層を切り捨てる主義の人こそ、国にも国民にも大損害を与える大罪を犯しているといえる。

 

機会が与えられなかった人に、与えられるはずだった機会を全て与えようというのも難しいところだろう。しかし、自分で今の貧困状態から脱するための機会を与えるというのは可能なはずだ。そして、そうしなければならない。

何故なら、福祉とか投資といった他人からの恩恵だけで貧困を脱した場合、脱した状態からさらに普通の生活の安定にまで達するにもまた、他人に頼ることになるからだ。それは他からの助けがないとすぐに貧困に舞い戻ることを意味する。

 

福祉も投資も有効だし、必要な場合もある。貧困層の人の中にも、どうしても他からの助けがないとどうしようもない場合もあるだろう。

ただ、多くの人は機会さえあれば自分を表現できるはずである。理由はそれが当たり前だからである。普通の暮らしを送ることが出来ているひとたちがそうであるように。自分を表現するとは即ち、自らが成長し周りを発展させる能力を発揮すること、である。

 

機会を用意することは、与えることではない。その人が表現したものが、我々を潤してくれることを期待することである。

また、他の誰かの機会を削ることになるなどと考えてはいけない。機会はいくらでも用意できるはずである。その機会を見つける手間を惜しむことこそが最大の怠慢なのである。