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科学的事実を信じ込むのはよそう

私たちは「科学的事実」という言葉に弱い。「科学的に証明されている」といわれるものは、何でも「そうなんだ」と信じてしまう習性を持っている。というより、信じ込むようにすり込まれている。

 

しかし、その科学的事実がどうやって導かれたのだろう、と考えてみることは少ない。そのようなことを思い浮かべたとしても、科学的事実がどのように誕生(?)したのか調べる術を持たないからだ。

まあ、どこかの偉い科学者が実験やら何やらで結論を得たのだろう、と思うぐらいなものだ。

 
さて、世の中にはいくつもの「科学的に証明された事象」が蔓延していると言っていい。人を説得するために用いられる科学的事実、自分の考えの正当性を強めるために用いられる科学的事実もあれば、迷ったときに頼りにする科学的事実もある。

「科学的事実」に縋ることで、安心感が得られ、スッキリ諦めることが出来て、自分の進むべき方向を決定することが出来る。

 

しかし、その科学的事実というのは、本当に精確なものと信じていいのか?本当に全てのデータを正確に公平に分析したものなのか。また、それ以前に必要なデータを完全に揃えた上での「科学的事実」なのか。

 

昨今、ブログなり書籍なりで「科学的事実」に対する懐疑的な見方が散見される。その内容を見ると、たった一度の結果でもって「科学的事実」とされることがあるとか、データの分析の際に恣意的な見方により結論に至る例があるらしい。

要は私たちが何の疑問も抱かずに「科学的事実」というものを鵜呑みにすることは危険だということだ。

 

「体によい体操があり、その効果は科学的にも証明されている」と教えられたとしても、自分の体にとってどうなのかは自分だけが判ること。もし自分に合わないと感じたなら、その感覚を信じるべき。

 

「AとBは同じであると科学的に証明された。と同時に、AとBの決定的な違いも科学的に証明された。」

今後このようなことが発生していくだろう。その時になって、「科学的事実」を闇雲に信じてきたことを悔やむことのないようにしておきたいものだ。